『葬式仏教』著者 薄井秀夫氏インタビュー:終活では自分の気持ちも、弔いの心も大切に

2024.10.8

    はじめに

    終活において大きなトピックのひとつが葬式。 しかし、自分や親の葬式について、規模や予算などの悩みを抱える方は多いと思います。 その悩みの源は、何が正解かわからないという不安ではないでしょうか。 自分は熱心な仏教徒ではないし、葬式も簡素でいいとは思うけど、何もしないのも違う気がする…… このようなぼんやりとした不安を少しでも軽くするためには、そもそも葬式ってなんだろう?と考えてみることが大切です。 そこで今回は『葬式仏教』(産経新聞出版) 著者の薄井秀夫氏にインタビューしました!

    「葬式仏教」とは?

    葬式仏教」とは、葬送が活動の中心となっている日本特有の仏教を示す言葉です。 日本では葬式の9割近くが仏教で行われているにもかかわらず、仏教の教えにもとづく信仰生活を送っている人は極めて少ないです。著書『葬式仏教』では、このような日本特有のかたちをした仏教に光を当て、知っているようで知らない「葬式仏教」の姿を明らかにしています。 「葬式仏教」を日本人が代々育んできた営みとして捉え、一方で現代の「葬式仏教」が抱えるお布施や檀家制度といった課題にも切り込んできた薄井氏。 お寺のコンサルティングも行っている薄井氏ならではの視点から、日本人の終活そして葬式について語っていただきました!

    薄井秀夫(うすい ひでお)氏 プロフィール

    株式会社寺院デザイン代表取締役。昭和41年、群馬県生まれ。東北大学文学部(宗教学)卒業。中外日報社、鎌倉新書を経て、平成19年にお寺の運営コンサルティング会社である株式会社寺院デザインを設立。檀家や地域に求められるお寺にするため、活動の再構築のサポートを行っている。著書に、『葬祭業界で働く』(ぺりかん社)、『10年後のお寺をデザインする』『人の集まるお寺のつくり方』『寺院墓地と永代供養墓をどう運営するか』『どこが違うの?お仏壇』(鎌倉新書)など。

    どのような思いから『葬式仏教』の執筆を決めたのでしょうか?

    葬祭業界において、「葬式仏教」は誰もが当たり前に知っている言葉です。 業界で「葬式仏教」という言葉が使われるとき、そこには日本の仏教を批判するニュアンスが含まれています。「仏教は本来教えを説くべきものなのに、日本の仏教はろくに教えも説かないで葬式ばかり行っている」というものです。 また、仏教が葬式を行っていることに対して実は批判的なお坊さんも多いです。 「自分たちが本来すべきことは教えを説くことであって、葬式を行うことじゃない。でも一生懸命教えを説こうとしても一般人たちが応じてくれないから、仕方なく葬式を行っている」といった感覚というわけです。 しかしあるとき、一般人のほとんどが「葬式仏教」という言葉を知らないことに気づきました。葬祭業界や仏教界以外では、知名度が極めて低い言葉だったんですね。 つまり、「葬式仏教」という言葉を使って日本の仏教を批判しているのは、仏教についてよく知っている人──知識人やお坊さんだけなんです。 よくよく考えたら、一般人からすると日本の仏教が葬式を行っているのは悪いことでもなんでもありません。お釈迦様が説いた教えに純粋な仏教とは異なるかもしれないけれど、一般人と仏教で葬式の需要と供給が一致しているわけだから、それを悪とみなす理由がないのです。 ではなぜ、仏教に精通した知識人は「葬式仏教」を批判するのだろうか……この疑問が、「葬式仏教」というカテゴリに興味を抱いた原点でした。 葬式仏教への批判は、あたかも「仏教が葬式を行っていること」が問題であると語られがちです。 しかし、そのような見解は正確に物事を捉えているとはいえません。仏教が葬式を行っていること自体は、特に問題はないからです。 葬式仏教が改善していかなくてはいけないのは葬式仏教自体の仕組みです。お布施や檀家制度の仕組みが一般人の感覚とズレていることこそが、葬式仏教の抱える課題であるといえるでしょう。 本には、お坊さんを初めとする仏教界へ向けた2つのメッセージを込めています。 1つ目は、葬式を行うことに対してもっと自信を持ってほしいというもの。 本来自分たちがやることじゃないという思いのまま、いい加減に葬式をやってほしくはないのです。 2つ目は、葬式を行うこと自体に問題はないけれど、葬式仏教にも課題はあるということ。お布施や檀家制度は改善の必要があることを理解してほしいです。 こういった思いを仏教界へ伝えたくて、本の執筆を決めました。

    近年終活がブームになっていますが、仏教界にもその影響は及んでいますか?

    終活という言葉が世間に登場してから10年ほど経っていると思いますが、仏教界の当初の反応は冷淡なものでした。 今でもその傾向は強いですが、仏教界には「自分で自分の葬送を考える」ことに対して批判的な人が多いのです。自分で考えるべきことではなく残された人が考えるべきことだ、または伝統にのっとって行えばいい、という意識なんですね。 これはある意味仏教界から終活へのアンチテーゼでもあります。 終活によって自分の葬式は簡単でいい・やらなくていい、という人が増えると、葬式を中心としている日本の仏教界は立ち行かなくなってしまう。こうした危機感の表れでもあるということです。 しかし、仏教界のこのような意識もここ数年でだいぶ変わってきました。 どんなに面白くないと思っていたことでも、一般人が仏教界へ求めることには応じざるを得ないというのが現実でもありますし、檀家さんとの交流から一般人の終活への意識を少しずつ理解して変わっていくケースもあります。 終活に関するセミナーを開催したり、生前に葬式に関する相談を受け付けたりするお寺も増え、一般人だけでなく仏教界側も終活と真剣に向き合っていこうという空気が生まれてきていると思います。 仏教界側の終活関連の取り組みとして、私が代表取締役を務めている会社(株式会社寺院デザイン)では、お寺の住職による「弔い委任(死後事務委任契約の請負)」を積極的に啓蒙しています。 まず、おひとり様など、自身の弔いをしてくれる人がいない人が利用する契約として「死後事務委任契約」という仕組みがあります。信頼できる第三者と生前に契約し、葬式や財産などの事務処理を委任するものです。委任される第三者は司法書士や弁護士などのことが多いですが、これをお寺が請け負うのが「弔い委任」です。弔い委任に興味を持ってくれるお寺さんの数もかなり増えてきています。 弔い委任など終活関連の取り組みをお寺が行うことは、一般人側だけでなくお寺側にもメリットがあります。 かつて、お寺は一般人がもっと気軽に訪れることのできる場所で、地域の人がさまざまな相談をお寺へしに行くのも珍しくありませんでした。しかし、今ではお寺へ気軽に足を運ぶような雰囲気はなくなってしまいました。 しかし多くの住職は、一般人になんでも相談に来てほしいと思っているのです。 特に、葬式仏教は死に関わる宗教であるにもかかわらず、死に対する相談がお寺に寄せられることは極めて少ないという現状があります。なかでも自分自身の死に関する相談は皆無と言ってもいいでしょう。つまり、本来の役割を果たせていないという負い目を感じているお寺も多いです。 弔い委任などを住職が請け負うことは、契約上のやり取りをきっかけとして一般人の死に対する不安や悩みなどに触れ、寄り添うことにつながっていくと考えています。 それによって住職が自身の僧侶としてのやりがいを感じられるのは、大きなメリットといえるでしょう。

    葬式などに対する日本人の意識の現状をどのように捉えていますか?

    表面的には仏教離れや葬式の簡素化が進んでいるため、それに伴い「なぜそういうことが起きているのか?現代の日本人は死者を弔わなくなっているのか?」という問いが出てきます。 しかしさまざまな意識調査を見てみると、日本人が供養の気持ちを失っているという結果は皆無なんですね。こういう時代になっても、それなりの数の人たちが死者を大切にしているのは間違いありません。 ただ葬祭業界などに身を置いていると、そうは思いづらいのかもしれません。 簡素化が進む原因は「お金」そして「コミュニティ」です。 特にコミュニティの影響は大きいでしょう。昔に比べて、現代は地域社会や会社のコミュニティが非常に疎遠になっています。 私が卒業して社会に出たのは平成元年でしたが、当時は非常に景気が良く、その時代の葬式は参列者が100人では小規模、200-300人いて当たり前というものでした。 ところが、その参列者の半分以上は、故人や故人の息子の会社関係などで呼ばれた、故人の顔も知らない人たちだったんです。葬式が終わったあとには参列者同士で名刺交換会が始まり、営業の場と化していました。 大金をはたいてこのような葬式を行っていた当時は、ある意味「異常」だったともいえます。そう考えると、現代の主流である家族葬──家族と親しい人だけ、せいぜい2-30人の葬式──は、昔よりはよっぽど「まとも」な葬式なのだと思えませんか? 規模は小さくても「まとも」な葬式を上げている現代の日本人は、まだしっかりと弔いの気持ちを持っているのだといえるでしょう。 ただ、仏教界側が注視していかなければならない課題もあります。 それは「葬式のお坊さん離れ」です。 日本人の弔う気持ちは不滅であったとしても、現状のような葬式を続けていれば、葬式にお坊さんは不要だ、お坊さん抜きでいいや、というケースが増えてくるでしょう。 なぜなら、現状の葬儀は一般人にとって「字幕のない洋画を観せられている」ようなものだからです。 だって、葬式に行ってもお坊さんが何をやっているのかも、お経の意味もわからないじゃないですか。わけのわからない状態で一時間近く座らされて、居眠りしている人も相当いるくらい、葬式って退屈なんです。 そんな葬式を続けていたら葬式の大切さなんてわかってもらえないよ、もう少し意味がわかるように解説を入れたりしてみなさいね、とお坊さんには伝えています。 そういった工夫がなければ、お坊さん抜きの葬式は今後じわじわと増えていってしまうと思います。 こうした仏教界側の課題はあるものの、葬儀や弔いという行為自体は、少なくともこの先数十年は衰えることはないでしょう。

    自分の葬式はいらない、小規模でいいと考える人の増加も問題ないと捉えているのでしょうか?

    問題じゃないですよ。小規模な家族葬で何が悪いんだ?と思っています。 「自分の葬式はいらない」と言い残すのは逆に子どもたちへプレッシャーを与えてしまうという点で積極的には賛成できませんが、つまるところ、子どもたちも親の言い残したことをすべて守り切らずともやりたいようにやればいいんです。 お寺で檀家さん向けにセミナーを行うときに、葬式の希望を尋ねてみることがあります。 すると、自分の葬式は行わないか簡単でいいと答える人が多くても、親の葬式を行わないと答える人は一人もいないのです。自分の子どももきっと同じ思いでしょうから、そこは改めて考えてみてほしいとは思っています。

    日本人は他国に比べて先祖の霊的な力を強く信じているという調査結果*には驚きましたが、どうしてこのような傾向があるのでしょうか?

    (* 「祖先の霊的な力があると思う人の割合」の世界ランキング ISSP 2008年調査 / 『葬式仏教』掲載) キリスト教国である南アフリカを例に挙げて考えてみましょう。 まずランキングを見てみると、南アフリカは3位にランクインしています。しかし、同じキリスト教国であるフランスやドイツの順位は低いです。 その違いは、「純粋」かどうかです。フランスやドイツのキリスト教は比較的「純粋」なキリスト教ですが、南アフリカで信仰されているキリスト教は、キリスト教とアフリカの民間信仰が混じり合っています。 昔ながらの民間信仰は、魂などの存在を大切にしていることが多いです。そして、魂に関する信仰は必然的に死者供養と結びつき、強くなります。 そのため、外から持ち込まれてきた宗教と民間信仰が混ざり合っている国ほど先祖に対する思いが強くなっていると考えられます。 日本がランキング1位なのも、日本の民間信仰と仏教が混ざり合って「葬式仏教」という死者供養を中心とした日本独自の信仰を育んできたからなのです。 合理主義的な現代において、日本のような「ごちゃまぜ」な宗教は「純粋」なキリスト教や仏教に比べて劣っている、遅れているとみなす人も多いです。 しかし、そのような考えは現代人の驕りだといえるでしょう。手を合わせる気持ちに優劣などあるはずがないのですから。

    自分の葬式は小規模でいいなどの希望を尊重してほしいという思いと、伝統として育んできた「葬式仏教」という信仰を大切にしてほしいというジレンマも含め、日本人は今後どうしていくべきだと考えますか?

    死者を大切にする「葬式仏教」を信仰しているということに自覚的でなくても、日本において今後もこのような信仰が伝わっていくとは思います。死者を想う気持ちはなくならないはずです。 ただ、仏壇が家庭からなくなってきているのは惜しいですよね。 仏壇があると、扉をたまにしか開けなくても、口に出さなくても、なんとなくそこに死んだおじいちゃんやおばあちゃんがいるという思いが育まれていきます。 それが今ほとんどの家庭でなくなってしまっているのが惜しいなと思います。現代の住宅に仏壇を置くようなスペースはないので、仕方のないことなんですけどね。 法事に出る機会も減っていますよね。 そういう場に行って、故人となんとなくでも向き合う機会がだんだん減っているのは残念だと思います。 だからこそ、そういった機会があったらぜひ参加してほしいです。自分が法事を催す側だったら、忙しい人を誘うのは申し訳ないと思ってしまうかもしれないけど、そこは迷惑をかけてでも誘ってみる。故人と向き合う機会を持つことは、誰にとっても大切なことだからです。 やっぱり、死者と向き合う時間は良いものですよ。亡くなってすぐは辛いかもしれないけれど、しばらく経って思いが落ち着いてくると、死者と向き合うと手を合わせるこちらも安らぐことができます。 仏壇や法事を通して死者と向き合う、そういった時間は今後も大切にしてほしいなと思います。

    インタビューを終えて

    最も意外だったのは、現代の主流である家族葬は「まとも」な葬式であり、日本人は現代でもしっかりと弔いの心を持っているというお話でした。 私たちが葬式に対して「何が正解かわからない」「小規模な葬式では良くないのかも」といった不安を抱えてしまうのは、葬式には仏教的・伝統的な決まりがあり、それを守らなくてはいけないという思いがあるからだと思います。 しかし日本人にしっかりと弔いの心が根付いている以上、最も大切にすべきは自分の気持ちであって、ある程度は自由にしていいんだと勇気づけられました。 またそれと同時に、日本人の弔いの心は「葬式仏教」という優しい信仰によって育まれてきたのだという事実を少しでも意識して、葬式や法事などの故人と向き合う機会を大切にしていきたいと思いました。 終活を考えているみなさんも、ぜひ「葬式仏教」という視点から自らの気持ちを見つめ直してみてはいかがでしょうか? きっと、当たり前だと思っていた弔いの心がより大切に思えてくるはずです。

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